ガン患者に抗ガン剤や放射線などの療法を行なうことで、髪が脱けることがあります。脱毛が病人にあたえるショックは、特に頭髪が一時に脱毛すると、病人の精神にあたえる影響が大きく、悩みは深刻となりますので、その対応を考えてみましょう。
化学療法の副作用によって脱毛が起きます。これはガン細胞を破壊する時に、健康な細胞も一緒に殺してしまうためです。
人によってはわずかな脱毛にとどまることもありますが、髪全体がなくなることもあります。脱毛は治療を開始して2~3週間後から現れることが多いのですが、ときには2、3日後で抜け始める場合があります。脱毛が始まると病人も家族もショックを感じますから、あらかじめ脱毛に対しての知識を知っておくことが大切です。
放射線療法による脱毛は、化学療法の場合と少し異なり、照射を受けた部位だけが脱毛します。放射線照射が頭部に行われている場合には、頭髪が抜けるでしょう。乳ガンの場合に、わきの下を含む範囲の放射線照射を受ければ、わき毛だけが脱毛するでしょう。放射線治療終了後には、髪はまたもとにもどります。いつ戻るのかの時期は個人差がありますが、大体半年から1年以内にはもとにもどるようです。
化学療法を始めるときに、病人に「副作用があるので髪がたくさん抜けるが、化学療法が終われば再び髪が生えてくる」ことを話しておく必要があります。治療後1ヶ月から6週間以内に、はじめは柔らかい髪が生えてくること。
また3~6ヶ月後には、恥ずかしくない状態にもどることを説明しておきます。しかし、再生した髪は、以前より少し細かったり、ちぢれていたり、髪の色も少し違う場合があります。
脱毛による苦痛を少しでも和らげるために、以下の注意が考えられます。
ガンの再発や転移で死の告知を受けた場合でも、一時的に「小康を得る期間」があります。
やがて状態が悪化するのですが、医師はその前にできれば「家に帰って家族といっしょに過ごさせてあげたい」と考えています。また入院している病人自身が「家に帰りたい」とか「だめなら家で死を迎えたい」といった気持ちを示し、退院したいと医師にうったえる場合もあります。
しかし、こうした医師の考えを、病人や家族が理解できない場合があります。病院でこれまで治療をつづけてきて、特に病状が好転していないのに、退院するようにいわれれば、とまどいや不安を感じたりすることがあります。こうして退院をためらっているうちに、退院の時機を失うという場合は少なくありません。
退院した後、家族は精神面・看護面でさまざまな問題に直面するかもしれません。ときには病人の痛みがひどくなったり、食物が食べられなくなったりして、家族だけではどうしたらよいのかわからなくなることもあります。このような場合に備え、どのような事態が発生することがあるかをあらかじめ知り、それに対して具体策をたてておくことが必要です。
残された人生を、病院での医療にわずらわされることなく、自宅で比較的自由な生活を送ることが退院の目的です。
痛みのために薬を続けなければならない場合もあります。また、食欲が低下して体力がなくなり、歩く力がなくなった場合に、退院させたのがまちがいだったと悩んだり、「病気なのに退院させた」と親戚の人に非難されてもいけません。そこであらかじめ退院の意味を話し合い、最後まで協力しあえるようにしておくことが大切です。
退院により、家族は病人の世話で忙しくなります。また体力が低下して人手を要するようになった場合、家族の負担はより大きくなってきます。そのため、家事をはじめ生活上の事柄に対して、家族全員の協力態勢が必要となってきます。
一人だけに負担が集中しますと看病疲れから倒れてしまうこともありますので、役割を分担しあって病人を支えるようにしたいものです。
退院してからも病状が進行していくと、病人は自分の病名や病状に疑いをもち、家族に問いただすということも起こってきます。そんなとき、病名を突然聞かれると、適切な対応ができにくいものです。したがって、病人から質問される場合を考えて、真実を告げるかどうか、家族としての方針を確かめあっておく必要があります。
退院して、やがていろいろな症状が出はじめるようになります。これはあらかじめ予測できたことなのですが、現実になってみると、その対応にあわてる場合も少なくありません。このような事態を避けるために、最後まで在宅療養をつづけるか、時期を見て再入院して病院で最後を迎えるのか、事前に家族の間で決めておくことが望ましいでしょう。
寝たきり老人を介護する者は平成10年の統計で女性が85%といいます。寝たきり老人への介護は、老人の病気の内容や状態をよく把握した上で、手は出しすぎず、目は離さずが基本といわれます。ねたきり老人特有の「過度の安静」によって身体の機能の衰えを引き起こす生活から脱却していきたいものです。
「静かに寝かせておく」、「手を貸し過ぎること」が正しい介護と思い、そのように対処していると、病人はますます自分では何も出来ない身体になっていきます。いったん寝たきりになった場合には、日常生活をするための動作でさえ回復させることはむずかしいことになっていきます。そうならないために、現状の機能を維持し、より回復へ向けての介護を望みたいものです。
寝たきりになった時に気をつけることに、「とこずれ」があります。頭の後ろ、お尻の後ろ、腰の横、かかとなど、寝た状態で圧迫を受けやすい部位が出来やすくなっています。そのため、時々マッサージや寝返り、その部位を清潔にするなどの手助けが必要です。
食事をするための動作として、まず仰向けになった姿勢から座位(座いす・背もたれなどを使用)への移行をしたいものです。さらに状態がよければ、ベッドから車椅子ヘ、そして食事の場を寝室から食堂へと拡大していきたいものです。またスプーン、食器はその人に合った器具を使うことも必要です。飲み下すことがむずかしい場合にはミキサー食、刻み食などが必要です。楽呑み、コップ、ストローは、いつも病人の手の届く所に置きたいものです。
寝たきりの方の寝衣は、1日2回交換したいものです。交換することにより身体を動かし、清潔な状態になれば、少しは気持ちの切り替えになると思います。こうして車椅子への移行も可能になれば、身だしなみや整髪などへの配慮も出てきます。また、寝衣も自分で着脱できる改良衣を用意したり、色も明るい色を選びたいものです。
末期の状態にある人は、どのような苦しみや悲しみを経験しているのでしょうか。基本的な以下の7つをあげてみました。
病名にもよりますが、末期の人にはそれ相応の痛みが伴います。こうした病気が肉体的な痛みをもたらし、病人に不安やいらだちなどを与えます。人によっては「気分が安定した時に息を引きとりたい」と思うのでしょうが、痛みが持続したり、強くなると、気持ちが落ち込んでしまい、心の安定が保てないというのが一般的な気持ちでしょう。
病気が進行すると、それに伴って身体の動きが思うようにできなくなることがあり、それがいらだちや悲しみをもたらす原因となります。手が震えてはしが握れなくなったり、鉛筆が使えなくなったり、そうした日常的な行為ができなくなると、言葉に言い表せないほどショックを感じるものです。それが原因で、人前に出たくなくなり、自信を喪失するということがあります。また視力が低下して、本も読めず、テレビも見られなくなることもあります。食欲が低下して、体力が衰え、無気力な状態が続いていくこともあります。
家族をもつ人にとっては、残していく家族への思いは切実です。特に子供が小さかったり、あるいは仕事をやり残したままであると、それが心残りとなって、心の平安は訪れません。残していく家族の経済的見通しが出来るまでは心のゆとりができません。
自分が末期ガンであることを知っていたある男性は「自分一人ではとても耐えられません。私を理解してくれる家族があるから耐えられるのです」と語っています。自分の死を悲しみ、支えてくれる家族がいない場合には、その人の寂しさは格別なものでしょう。
人は自分が死んだ後、何も残らないと思うと、いいようのない寂しさに襲われます。この世に残る子供や孫を通して「自分が伝えられていく」という思いに慰められるということがあります。
末期の人の精神的苦痛の一つは「自分の人生で、何も意味あることを成し遂げられなかった」という後悔の思いにさいなまれることがあります。口にはしませんが、「自分は何のために生まれてきたのか」という後悔にさいなまれ、無口になる人もいます。
末期になると、人は死や死後の世界などについて考えたりすることがあります。こうしたときに普段から信仰を持っている人は、そうした力にすがって精神的な領域へ心を振り向けることがあります。
末期の状態にあっても、少しでも快適な生活をおくらせたいと、家族の者も願うものです。
苦痛がある場合、その処置をするのに病院は適切な場ですが、管理上の制約があるため病院は終末期を過ごすのに快適な環境とはいえません。しかし、いつ病気が急変するかわからないし、自宅で世話をする人手がないなどの理由により、末期を病院で過ごす場合が少なくありません。したがって、入院生活を送りながらも、できるだけ快適さを保つ工夫をしたいものです。
入院中に、より自由な生活を送るという点では、個室の方が対応しやすいでしょう。しかし、経済的には負担がかかり、個室が少ないために入室が困難な場合があります。公立病院は比較的個室が少なく重症にならなければ個室には入れないかもしれません。個室が多い病院で経済的な事情が許す場合には、入院の最初から個室を使用してもよいでしょう。そして、例外的な生活を少しでも許可してもらい、生活の幅を広げるようにする方がいいと思います。
末期の病人にとって、食事や検温なども、病院のルール通りにすることがとてもつらい場合があります。たとえば、早朝には食欲がないので、朝食をおそく取りたいということもあるでしょう。しかし、そのような場合でも、病人は自由がききません。また、看護婦の方でも、病人の気持ちに気がつかないことがあります。したがって、このような病人の望みを察知したら、家族の方から患者の状態を話し、例外的な対応がしてもらえるかどうか、看護婦に相談してみるようにおすすめします。
病院の制約のために、病人に細かい対応ができないところを、家族ができれば素晴らしいと思います。
例えば、
主治医の許可を得て、週末や家族の都合のいい日にできるだけ外泊するのは、病人はもとより家族にとっても意義のあることです。残り少ない時期に病人と家族の交わりの場を多くし、また気がねなく家庭で過ごす時間をもつことは気分転換になります。次第に衰弱が進み、自分の身の回りのことが自分でできなくなったとき、家族はできるだけ病人のそばにいる時間を多くすることが望ましいでしょう。
病状が進行した場合には病室に泊まりこむこともあります。あとで家族に心残りがないようにするためにも、末期には病室に泊まる機会をもつのもいいと思います。
自分が不治の病いになったら、終末期を自宅で過ごしたいというアンケート結果があります。しかしそれによって、家族にかかる負担は、入院の場合よりかなり重いことが予想されます。また、終末期を自宅で過ごす場合でも、ぎりぎりまで自宅にいて最後は病院に入院して死を迎える場合と、自宅で死を迎える場合があります。
家事や看病はまだまだ女性が行なうのが一般的です。したがって病人が女性の場合、「家事や看病をだれがするのか」といった問題が男性の場合よりも発生しやすいでしょう。せっかく自宅で生活できても、病人が家事の心配や気苦労を抱えてしまうようだと逆効果です。
苦痛がひどい場合は、無理して自宅に帰ると本人にとっても家族にとってもつらい状態を招いてしまいます。退院するには痛みのない、あるいは痛みが抑えられている状態であることが原則です。
老人の場合、医療機器に囲まれて延命処置を受けるよりも、自宅で最後を迎えさせてやりたいと、周囲の者も考えることができるようです。これに対し50代等の若い年代の場合は、治療の可能性があるのではと考え、自宅で過ごすことへの迷いが家族にも生じやすくなっています。
死の直前まで、点滴をしたり心臓マッサージを行ったりして治療を継続することが一般的です。こうした延命医療を最後まで必要とするか、それともその必要はないと考えるかで、在宅にするか病院にするかの選択も左右されます。また、次の3点も検討の目安となります。
在宅かどうかを決定するのに最も重要なのは病人自身の気持ちです。たとえば、予後を自分で察知し、自分から医師を説得して自宅に帰ることがあります。もし病人自身が、自宅で死を迎えたい場合には、家族と十分話し合うようにします。
末期といっても、人によって大きな開きがあります。また病状や運動機能がどの程度かによっても、家族に加わる負担が、個々に相違があります。したがって、どのような状態で在宅生活を送ることになるのか、またどんな問題が発生するのかを予測するのは困難なことです。
一般にガンの場合は、脳卒中による寝たきり状態とは違い、麻痺による運動機能障害は発生しない場合が多いようです。つまり、体力低下や衰弱のために動作が緩慢になっても、歩行が出来なかったり、片手が麻痺して使えなかったりする場合は比較的少ないのです。したがって家族の方が日常生活の世話をこまごまと行うことは、かなりの終末期になるまで必要ない場合が多いようです。むしろ病状の進行に対する不安や、告知や死に当面することに伴う精神的な苦しみの方が大きいようです。
病状が進んだときには、交代で看病する人が必要になります。病状が変化しやすく、どんどん悪化していくこともあるので、病状を見守る人が付き添うことが必要です。そして、何か異常があれば、すぐに訪問看護婦や往診してくれる医師に連絡する態勢が必要です。
同居家族内に人手が足りない時は、家政婦やホームヘルパーを頼む必要が出てくるかもしれません。もし在宅で死を迎える場合には、死が近づいた最終段階で病人のそばにいて看病にあたっている家族が2人でついていられるような態勢ならば心づよいでしょう。
在宅で生活するときには、終末期であってもできるだけ普通の生活を送るようにするといいでしょう。一日中ふとんの中にいる必要はなく、お客様と会ったりできるでしょう。ガンが全身の骨に転移して容易に骨折しやすい状態になると、病院ではトイレへの歩行も、入浴も禁止されることもありますが、自宅の場合は介護者が何人かいれば、入浴することも可能ですが、そうでない場合には清潔に保つために身体を吹いてあげましょう。
退院時に食事についての特別な注意があったり、消化器系のガンでチューブが食道に挿入されている場合以外は、本人が食べたいと思うものを用意するようにし、本人がしたい生活を送れるように配慮することが大切です。
自宅で死を迎えると決めた場合、臨終の際にも患者を直接診ていなければ、医師は死亡診断書を書けないので、不審な死ということになります。そのためにも、いざとなったら往診して死亡診断書を書いてもらえる医師を探しておく必要があります。
末期の人を援助する目的は、苦痛や悩みを和らげ、心の平安を増す手助けをすることにあります。そのために心掛ける7つの要点をあげてみました。
回復不能な状態にあるならば、少しでも苦しみや悩みから解放させ、満ち足りた気持ちで最後の日々をおくることができるよう手助けをしてあげたいものです。
心の平安を増すよう手助けするとともに、希望している願いをかなえてあげるようにしてあげることも、大切なことです。末期の人の願いは、私たちが健康である時には、かなえられる当然なことが多いものです。「おいしい物が食べたい」「もう一度、庭の手入れがしたい」等々です。そのためできるかぎり努力して実現させてあげたいものです。
病人は大変に心が敏感ですから、同情と関心をもって接してあげることが大切でしょう。病人が、心から願うことは、「誰かがそばにいて、私の苦しみや悲しみを分かち合ってほしい」ということでしょう。したがって、病む人と共にいることが大切となります。病む人のそばにいて、さまざまな苦しみや悲しみに耳を傾け、その訴えを聞いてあげることが病む人の求めていることでしょう。
末期の人を援助する為には、出来るかぎり、何度も訪問してあげることが大切です。そうすれば「寂しい」気持ちが和らぎ、気持ちが穏やかになるでしょう。
末期の人が、何を感じ、何を欲しているのかを聴きとり、願いごとの実現に尽力することが大切です。そのために話に関心をもって聴き、何を望んでいるかをあるがままに受けとめたいものです。
「もう一度、口から物を食べたい」、「洗面所まで歩けるようになりたい」、「おいしい物が食べたい」、「痛みから解放されて、ゆっくり休みたい」
こうした小さな願いに耳を傾けることは、とても大切なことでしょう。
体力が衰え会話が不可能になった時にも、手でこちらの気持ちを伝えられます。私たちは、相手に触れることによって、「私はあなたと共にいます」というメッセージを送っているのです。会話ができなくなった時には、相手の手をにぎったり、身体をさすってあげたりしながら、コミニュケーションするのも大切です。
末期の人のケアに携わる時に注意したいのは、家族自身がこうむるストレスにどう対処していくかということです。末期の人は、援助する人の心を敏感に察知します。もし、家族の方々が、看病に疲れたりして、看護に心がこもらなくなったり、疲れた顔をしていたら、看病を受ける人も負担を感じさせてしまいます。そこで家族の方もゆっくりと息抜きをして、自分たちをケアする時間が必要でしょう。
介護用品を選ぶ場合に、利用者にとってどれがよいかを決めることはむずかしいと思います。そのため使いやすさ、使用目的などを明確にする必要があります。基本的には以下の点に留意して選びます。
車椅子を利用することで病人の生活の幅を広げることができれば、その使用を考えたいものです。車椅子には、多くの種類がありますが、病人の体格、身体機能に合うものを選びます。色々なタイプがありますが、折りたたみ式のものが便利な場合もあります。また、家屋内の移動や椅子がわりに使う人もいます。玄関の段差をなくすスロープ、屋外から寝室まで床にビニールを敷けば、1台の車椅子が室内と屋外の兼用に使えます。
介護用ベッドは、自宅で療養する方の生活をサポートし、付属品を利用することで利用者の行動範囲を広げることに役立ちます。部屋の広さや利用される方の身体の状態に合わせて選びます。
種類には寝巻き、パジャマ、ネグリジェがあります。材質は木綿、ウールなどの天然繊維がよいと思われます。デザインは、着脱が簡単で着くずれしないものがよいでしょう。寝たきりの場合、褥瘡(床ずれ)の発生を防ぐために、背中に縫い目のないものがよいでしょう。
介護用品専門店には、多くの種類が展示されているので参考にしましょう。レンタルの場合、料金、期間等を調べて選びます。レンタルの介護用品には、寝返りベッド、電動ベッド、車椅子、床ずれ予防マット、酸素吸入器などがあります。
内容を準備中です。
病名の告知は主治医が説明するのがベターなのですが、指導医を介したり、家族を介して病名が告知されることがあります。いずれにしろ、どのように、どういう目的で病名を告知するのか理解していることが大切です。
病名を告げるために、適切な時期を失しては、かえって害になることがあります。病名を告げる時期は、病気の性質や種類、告知する対象、病名を告知する人の考え方などに左右されるので、一律には論じられません。しかし、病名を告げる時期としては、次のような場合があります。
病名を告知するにもいくつかのレベルがあります。
病名を告げることで人は病気がもたらす意味を自分自身で考えることになります。しかし、病名を告げることで、その病気を誤解して、いたずらに恐怖を与えたり、曲解したりする人もいるので、病名を告げる際には、正しい理解が得られ、適切に対応がなされるよう充分配慮することが大切です。
告知を決めるにあたっては以下の要因を考慮することが大切でしょう。
訪問看護制度は、在宅で介護を必要とする老人が安心して療養生活をおくれるよう、担当の医師の指示の下に、訪問して介護・ケア・生活指導・介護指導などの看護サービスを提供するシステムです。病状の進行が予測される状態での退院時には、悪くなる前に訪問看護を受けるようにしておくと、いろいろと役立つことがあります。訪問看護を受けた家族の方は、訪問看護を受けてよかった点に、「不安な気持ちが支えられた」「処置や清拭などのケアをしてくれた」「主治医と連絡が取れ、適切な対応がなされた」などがあります。
介護保険制度下においても、訪問看護には、これまでどおり主治医の「訪問看護指示書」が必要です。介護保険における訪問看護には、医療機関の行う訪問看護と訪問看護ステーションの行う訪問看護があります。特に訪問看護ステーションについては、
の3種類が存在します。
訪問看護の利用にあたっては、退院してから訪問看護を依頼するよりも、入院中に訪問看護の手続きをしておくことが大切です。
介護保険における訪問看護には、医療機関の行う訪問看護と訪問看護ステーションの行う訪問看護があります。
対象者は65歳以上または40歳以上65歳未満の特定疾病者で、要介護要支援の認定を受けた人。
対象者は要介護認定で「自立」と判定された人、要介護認定自体を受けなかった人等で、医療の必要性があると、医師が判断した人。
対象者は若年者など介護保険の被保険者(対象者)でない人で、医療の必要性があると医師が判断した人。
訪問看護は、現在、医療保険では、医療ニーズが特に高い場合を除いて、週3回を限度として行われています。こうした通常の頻度で行われる要介護者等に対する訪問看護については、介護保険から給付される予定です
。一方、がん末期、急性増悪時のような医療ニーズの高い場合には週3回の制限が撤廃され、毎日、訪問看護を行うことが認められています。このような場合、要介護度に応じた支給限度額の範囲内では対応できませんので、医療保険からの給付が妥当と考えられています。
老人訪問介護とは寝たきり老人等に対し、主治医が必要と認めた場合、その指示を受けて看護婦等が在宅で行う療養上の世話をさします。
具体的には、
等があります。
介護保険制度以前では、医療機関からの訪問介護は医療費の一部として請求され、また訪問看護ステーションの訪問看護も1回250円の定額負担で行われていました。ところが介護保険制度では、訪問看護は原則的に介護保険に組み込まれ、訪問看護を受ける度に1割の自己負担が必要になりました。また新たに居宅療養管理指導料なる負担も増え、患者さんにとって、これまでなかった自己負担が必要になりました。
病人が寝たきりの状態になったり、昼夜付添いが必要な状態になると、家事を手伝ってくれる人や、交代で世話をする人が必要となります。
病気の状態や看病する家族の人数によっては、援助を必要としないこともあるでしょう。しかし、親戚などの援助など、あらかじめ確保しておく方が、いざというときにあわてないですみます。あるいは、条件があえば訪問看護あるいは訪問介護を依頼するなど、事前に手配しておきましょう。親戚への援助を頼むときは退院前に話しあい、どの程度の協力が得られるかを確認しておくとよいでしょう。
一般の医療は健康保険で受けることができます。
ただし、国民健康保険は社会保険に比べ自己負担の割合が高いので、その分出費が多くなります。ガンの場合、放射線療法などの継続的な治療が行われます。こうした療法は定期的集中的に治療し、かつ期間が長いため、治療費はかなりの額になります。また、特別な医療が行われたり、保険では認められていない新薬が投与されると、自己負担額は多くなります。治療の必要上、クリーンルーム(無菌室)に入る場合、治療費は保険で補填できても、部屋代は自己負担になる病院もあります。
入院中にかかる費用の中で、大きな負担になるのが、「差額ベッド料」です。
この「差額」というのは、保険が適用される限度額との差額のことです。差額ベッド料は、一日数千円から数万円までの幅がありますが、長期的にはかなりの金額になります。公立病院では差額ベッド数が少なく、保険料だけで入院できるベッドが多いのですが、入院待ちをしなければ入れないのが現状です。
一方民間病院では差額ベッド数が多いので、空いている確率は高いようです。
プライバシーが妨げられることがあります。したがって、いちがいに個室がいいとも複数ベッドの病室がいいともいえません。また、重症になった時点で個室に移動する場合、患者が病状の悪化を感じて、個室への移動をいやがることがあります。
長期にわたるガンの治療には、多額の費用が必要となります。しかし、現在の保険制度では、毎月の医療費自己負担額が一定額を超えると高額療養費の支給対象になり、申請すると一定期間の後に、その差額が払い戻されてきます。また市町村自治体によっては、医療費の無利子の貸付け制度があるので、それがあれば利用するのもいいでしょう。
また、病院によっては、誓約書を入れれば分割払いにできたり、支払い期限を延ばせたりという、院内処理による支払い猶予制度があるので、相談するといいでしょう。これらの制度については、入院手続きのときに説明があるわけではないので、婦長などに相談するといいでしょう。
入院生活では、いろいろな必需品をそろえる費用がかかります。また、面会での費用もばかになりません。次に出費がかさむものを簡単にあげておきます。
ホスピスは、「親切にお客をもてなす所」という意味で、末期の人が人生の最後を充実して過ごせるよう、専門スタッフがさまざまな協力を積極的に行う場です。病院よりややゆったりしたリズムの生活、親密な人間関係を基本に、患者の苦痛に積極的に対処していく特別なケアをする場所といえるでしょう。
病名告知は、あくまでも本人の気持ちを尊重し、家族とも相談しながら慎重に行います。精神的な援助にも積極的で、時間をかけて病人の話を聞く姿勢を持っています。さらに、家族を支援しようとする姿勢も強く、家族の気持ちを聞いたり、宿泊への配慮などもいきとどいています。
もちろん散歩や外出、また病室での書き物などへの理解もあります。また、ホスピスによってはキリスト教あるいは仏教の宗教的な行事を行っています。
ガン終末状態で苦しんでいる病人を看護している家族は、ホスピスなら苦しみをとってくれるかもしれないと考えます。一般の病院に入院している場合は症状に応じて医師も看護婦も努力し、最後まで入院を継続する場合がほとんどです。しかし最近は患者がホスピスに移る場合も少なくないようです。
いずれも痛みなどの症状を少しでも取り除いてもらいたい、という場合が圧倒的なようです。痛みの緩和のために麻薬の処方に消極的な医師の場合にはホスピスに移った方が病人の苦しみを取り除くことが出来ます。また症状が複雑で、いろいろな薬の組み合わせを必要とする場合にも、ホスピスの方が適切な対処を行なうことが出来るでしょう。
身体の痛みは、ときには精神的な問題が加味されている場合が少なくありません。また死の恐怖で悩んだり苦しんでいる場合もあるでしょう。その際には、ゆっくりと話を聞いたり、精神面に作用する薬を併用するなど、その人の状態に即した方法を用いる必要があります。
ホスピスの医師や看護婦は、精神的な問題に積極的に対処しようとします。一般の病院では処置その他の仕事に追われてゆっくり話す時間がない場合が多いのですが、ホスピスでは時間をかけた対話や交流も大切な症状への対処方法と考えています。
ホスピスは建物の構造や設備上の点で、医療以外の生活の幅を広げようとする態勢が考えられていて、終末期の生活をより快適に、充実して送れるよう配慮されています。
たとえば、個室が多く、病室内にトイレがあり自分で歩いてトイレに行きやすい。家族が泊れる部屋がある。病人のために家族が調理できる台所がある。庭や池があり散歩できる。宗教的な支えがあるところもある。したいと思うことが行えるよう職員が援助する姿勢を持っている、などの環境が用意されています。
病名や予後を知っている場合に、病人自身がホスピスに入りたいと考える場合があります。しかし現状では、家族がホスピスに病人を入院させ、苦痛な症状を取り除いてあげたいと思う場合が多いようです。その際、病人を受け入れるうえでどのような手続きが必要なのかは、各ホスピスによって異なりますが、以下のようなことに気をつけます。
ホスピスの受け入れ条件は、ホスピスにより多少の相違があるので、選択の際にはあらかじめ調査が必要です。ホスピスによっては、受け入れ条件としてガンの発生部位をある程度限定していたり、年齢や、家族が泊まりこみで付き添うことを条件にしているホスピスもあります。
ホスピスが設けられている病院は、一般病院、療養所、老人病院など多様です。現段階ではホスピスのあり方について統一された基準が設けられていないので、ホスピスそれぞれに考え方が多少異なると思います。しかし、ガン終末期に現れる症状を積極的に抑えることや、精神的な苦しみを支えようとすること、また家族に対しても援助を行うという点では共通しています。
あわてている場合が多いが、落ち着いて次の要領で呼びます。
蘇生法とは、呼吸が停止したり心臓が止まったときに、適切な処置を施し生命を救う方法です。蘇生法には、気道の確保、人工呼吸、心臓マッサージの順で行なうのがコツです。
人工呼吸を行なう前に、まず次のような処置をします。
意識を失うと、舌の根元がのどの奥に落ちこんで、気道をふさいでしまいますので、相手の頭をできるだけ後ろに反らせるようにして、気道を開いてあげねばなりません。
心臓が止まっているかを知るには、大きな動脈の拍動がない、呼吸が止まっている、瞳孔が大きく開いている、心臓の音が聞こえない、皮膚の色が暗紫色になっているなどの症状で判断できます。このような場合は、直ちに心臓マッサージを行ないます。
<方法>
病人を運ぶ場合、普通あおむけにしますが、意識を失っている場合や、首や背骨を強く打った場合には、運び方、寝かせ方に、特別の注意を払います。また運び方、寝かせ方で、患者の容態をいっそう悪くさせてしまうことがありますので注意が必要です。
患者が意識を失っている場合は、すぐ横向きにして寝かせ、頭を後ろにそらしてのどを広げるようにし、顔は下向きに地面のほうに向けます。これは気道を確保するためと、嘔吐が起きたとき、吐物が流れやすくするためです。ひざは少し曲げます。
痛みを感じさせないで自動車に乗せることは困難です。また乗用車では、患者を水平にして置くことは不可能に近いので、救急車が使用できないときは、荷台の広いバン型の車に寝かせて運びます。乗用車の後席に乗せて運ぶことは子供の場合以外は避けます。特に意識を失っている場合には、気道がせばまったり、吐いたものがのどにつまらないように注意します。
「死の瞬間」の著者キュブラー・ロス女史は、死を告知された患者は、どのような心理的変容をたどって死を迎えるかということについて、一つの臨床的研究を行い、患者の死に対する考え方と死の恐怖をどのようにして和らげるかという問題について、具体的に考える手掛りを提供しました。
死を迎えるまでに人間の心理はさまざまな様相をたどります。死は人にとってもっとも個人的、内面的な出来事であるからです。したがって、キュブラー・ロスが症例研究から概念化した「死の過程」も、どのような死にも当てはまるというものではないでしょう。しかしながら、彼女が示唆した一連の逐次的な5つの段階は、死の過程に一つの輪郭を与えたものと考えられます。
死の段階は、キュブラー・ロスが200人の死に臨んだ患者と面接し、そこから選んだ死の経過を記述したものです。
私にはそんなことはあり得ない」といい、死を認めようとしません。死を遠ざけようとする段階です。否認は、一時的な自己防衛機制によって生じます。やがて徐々に死を受容し始めます。
死の否認という段階が維持できなくなると、やがて死ななければならないことに対する怒り、さらに生き統ける健康な人々ヘの羨望、恨みなどのさまざまな気持ちが現れます。
この段階は「交換条件」のようなものであって、神仏や超自然な力に対して何らかのお願いをして約束を結びます。たとえば、「病気が治るならば、自分の財産を寄付してもよい」などと…もし、それが出来ないならば、せめて痛みや身体的不快のない状態がほしいと願うのです。
末期の人はたび重なる手術あるいは入院治療を受けなければならなくなり、さらに「取り引き」にかかわらず、ますます病いが悪化する兆候が現れはじめて、衰弱も加わってきますと、現在までにやり残してきた仕事や、さまざまな後悔などの思いが患者の心に去来し、抑うつ的になります。
受容はこれまで生きることへ向けられていたエネルギーが、それから離れることを意味します。苦痛との戦いが終わり、長い旅路の前の最後の休息の時がこれにあたります。患者が突然死や事故死ではなく、何らかの形で死を予期し、覚悟してきた患者は、このような心理的経過を経て、やがて死を受容して死んでいくといっています。こうした精神的な葛藤を生き抜いてきた人は、それまでより人格的に成長するということがいえるでしょう。
もっとも、こうしたプロセスはあくまで、一つのあり方であって、最後まで死を受け入れないで死んでいく人や、子供たちの将来を安じながら死んでいく人たちも多いことでしょう。